生きていくということは、ときにつらく悲しく涙することもあります。
『蟹工船』という小説を書いた小林多喜二という作家がいます。
この人は戦前、思想・社会運動を取り締まる特高警察に検挙されました。取り調べといっても実際には、竹刀やムチで打たれたり投げられたりする毎日で、目は腫れ、口は裂け、髪の毛もずぼっと抜けるひどい拷問でした。
多喜二はやがて東京・多摩の刑務所に入れられますが、北海道の小樽にいる多喜二のお母さんに、5分間だけ面会が許されることになりました。
字の読めないお母さんは、刑務所からの手紙を読んでくれた人に、「5分もいらない。1秒でも2秒でもいい。生きているうちに多喜二に会いたい。」と訴えました。
貧乏のどん底だったたので、近所の人になんとか往復の汽車賃だけを借りて雪が舞う小樽を発ち、汽車を乗り継いで指定時間の30分前に着きました。
看守がその姿を見て、あまりにも寒そうなので火鉢を持ってきました。するとお母さんは「多喜二も火にあたっていないんだから、私もいいです」と、火鉢をよたよたと抱えて面会室の端に置きました。
今度は別の看守が朝に食い残したうどんを温めて差し出しました。お母さんは車中、ほとんど食べていません。それでも「多喜二だって食べてないからいいです」と、これも火鉢のそばに置きました。
時間ぴったりに看守に連れられて面会室に現れた多喜二は、お母さんを一目見るなりコンクリートの床に頭をつけ「お母さん、ごめんなさい!」といったきり頭があげられません。両目から滝のような涙を流してひれ伏してしまいました。
わずか5分間の面会時間です。言葉に詰まってお母さんを見かねた看守が「お母さん、しっかりしてください。あと2分ですよ、なにか言ってやってください」と言いました。
ハット我に返ったお母さんは、多喜二に向かって、この言葉だけを残り2分間繰り返したそうです。
「多喜二よ、おまえの書いたものは一つも間違ってはおらんぞ。お母ちゃんはね、おまえを信じとるぞよ」
その言葉だけを残し、お母さんは再び小樽に帰りました。
やがて出獄した多喜二は、今度築地警察の特高に逮捕され、拷問によりその日のうちに絶命しました。太いステッキで全身を殴打され、体に何か所も釘が何かを打ち込まれ、泣くなったのです。
もはや最期の時、特高がまだステッキを上げようとすると、多喜二が右手を挙げて、しきりと何かを言っているようです。「言いたいことがあるなら言え」と特高が水をコップ一杯与えました。すると、多喜二は肺腑から絞り出すような声で言いました。
「あなた方は寄ってたかって私を地獄へ落そうとしますが、私は地獄には落ちません。なぜなら、どんな大罪を犯しても、母親に信じてもらった人間は必ず天国へ行くという昔からの言い伝えがあるからです。母は私の小説は間違っていないと信じてくれました。母は私の太陽です。母が私を信じてくれたから、必ず私は天国に行きます」
そう言って、彼はにっこり笑ってこの世を去ったのでした。
お母さんは、字はひらがなぐらいしか読めません。したがって、多喜二の小説は一行も読んではいないのです。しかし自分の産んだ子は間違ったことはしていない、かあさんは信じていると言ってくれました。
人間学の月間「認知」のメルマガより転載させていただきました。
仕事中でしたが目から涙があふれてきました。
私にとって私の母は太陽でした。過去形にしてしまいましたが生きてます。自身は太陽になっているだろうか?自信はない。
築地住建のWEBの分野を影で一生懸命に支えてくれているHP製作者さんの手によって、少しずつ便利な機能が追加されたりと進化を続けていますが、今日新着コメント欄が追加されていました。これでウッカリの多いい私でもコメントの取りこぼしがなくなりそうです。数日前にくださっていた、しまださまからのコメントの返事が遅くなってしまいゴメンナサイ m(__)m